研究と報告

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2012.03.16

「自治体労働者とディーセントワーク」

西谷 敏(大阪市立大学名誉教授)

 この論考は、2011年12月17日に行われた地方自治問題研究機構の運営委員会で、西谷敏先生(大阪市立大学名誉教授)の「話題提供」をテープで起こし、編集部が整理した原稿に、先生ご自身で手を入れていただいたものです。
自治体労働者とディーセント・ワークについて、維新の会の職員基本条例案についてもふれた非常に明快な内容になっています。是非とも参考にしていただきたいと思います。(編集部)

一 大阪市長・府知事選挙の結果をどうみるか
1 争点としての「独裁」と民主主義

 最初に、先日行われた大阪市長・府知事選挙の結果を振り返ってみたいと思います。いろいろな観点からの総括があり得ますが、私が非常に強く印象付けられた点にしぼって述べたいと思います。
 この選挙は、「独裁」か「民主主義」かが争点になった非常に珍しい選挙でした。そもそもこのような争点の設定自体をどう考えるかという問題があります。一説には、「これは橋下氏の策略である。こういう理念論に持ち込めば、相手方が乗ってきて、そうなれば絶対勝つ」というので、あえてこういう争点を設定したという意見もあります。
 実際、「独裁」か「民主主義」かという争点が設定されたために、たとえば大阪都構想を具体的にどう考えるのか、あるいは、これからの府や市の行政を具体的にどう進めるのかという内容は、あまり議論されないままに終わった気がします。
 ただ、同時に思うのは、「独裁でやるんだ、それがいいんだ」と言われたときに、「それはひどい、民主主義に反する」という対峙の仕方はきわめて健全で、これは憲法の趣旨からいっても当然の争点設定ですが、問題は、そういう設定をして「6対4」で負けたということです。私は、この問題は深刻に受け止めなければならないと思います。なぜこうなったのか。単純化して言えば、「独裁でもよいから、現状を変えてほしい」という府民・市民の声が6割を占めたということです。

2 「独裁でもよいから現状を変えてほしい」の意味

 「独裁でもよいから現状を変えてほしい」という声は、もう少し分析的に言えば、「独裁でもよい」という面と、「現状を変えてほしい」という面から成り立っています。
「独裁でもよい」という声は、民主主義というものの重要性が住民の意識のなかにいかに定着していないかを表しています。これは大変危険な状況です。「なぜ民主主義が必要なのか」は、これまで運動を進めてきた側からすれば当然のことで、これを争点にすれば絶対に勝てると踏んだのでしょうが、実は、国民の意識においては当然ではありませんでした。そのことを踏まえて、改めて「なぜ民主主義が必要なのか」というところから議論するほかありません。これが一つです。
 もう一つの面は、「とにかく現状を変えてほしい」という住民の気持ちです。これは、府民・市民のフラストレーションがいかに深刻であるかを示しています。大阪市は、生活保護を受ける世帯数からもわかるとおり、貧困者がとても多い地域です。生活の貧困の原因は主として経済・政治にあって、それを地方行政の責任にすることはできませんが、さまざまな宣伝によってそれが結び付けられてしまいました。いずれにしても、いかに府民・市民の貧困化が進んでおり、それによって不満が鬱積しているかが明らかになりました。
 問題をこういう角度から見ると、これは大阪府・大阪市の問題にとどまりません。私は、当初、橋下氏は独特の個性を持つ人物で、そういう人物が大阪府や大阪市をかき回しているのだと思っていましたが、よく考えてみると、日本全体に存在する民主主義意識の後退、貧困から来る不満の鬱積という問題が、大阪で橋下を押し上げたと見るべきです。そう意味で、私は、大変暗い気持ちであの選挙結果を見ました。

3 選挙と職員基本条例

 もう一つ、選挙にかかわって、「職員基本条例」の問題があります。「教育基本条例」のほうはある程度知られていますが、職員基本条例はあまり争点にはなりませんでした。
 ただ、皮肉な言い方をすると、あれが争点になっていれば、橋下氏がもっと票を取ったかもしれません。つまり、私の見方では、職員基本条例の問題は、公務員に対して様々な不満をためている市民からすれば、橋下氏を支持する理由になっても反対する理由にならないのではないか。このことも深刻に考えなければならないと思います。

二 職員基本条例案の考え方
1 内容

 維新の会がつくった職員基本条例案の内容には、様々な問題があります。大阪府では、この案をふまえて知事が新たな職員基本条例案を提出しています(それに応じて維新の会の案は撤回)が、基本的な性格は変わっていないと思います。そこには、少なくとも五つの問題があります。
 1番目は、準特別職である幹部職員を公募制、任期制で採用するということです。基本的な狙いは、首長の意にかなう人間で上層部を固めることです。
 2番目は、成果主義の徹底です。職員全員の人事評価を行い、「少なくとも5%の職員を最下位のD評価として、最低評価Dを2年連続で受けた職員を分限免職前提の研修の対象とする」という、とんでもない制度です。民間でも、セガ・エンタープライゼス事件判決に見られるように、成績が悪いからといって解雇の対象にすることはできません。
 こういう制度を導入すると、毎年5%の職員が成績が悪いという理由で切られていくことになります。こういうばかげた制度がまじめに提案されています。
 3番目は、条例による懲戒・分権処分の基準と、公開の基準の制定です。基準を明確にするのはいいことだという見方もありますが、任命権者が裁量で処分を決めるという原則を否定し、具体的には、「5回の職務命令違反、または同一の職務命令に3回違反すれば直ちに免職」というように、明らかな厳罰主義です。
 4番目は、給与水準の切り下げです。すでに大阪市では、交通局職員の賃金を40%引き下げるという驚くような提案がなされています。
 5番目は、組織改廃や民営化等による分限免職の手順等を定めるということで、要するに、解雇を進めやすくすることです。

2 基本的な問題点

 こうした条例案は、「地方公務員法や憲法の精神に反する」という批判ももちろんできますが、狙いとしてかなりはっきりしているのは、「首長独裁制」の具体化です。要するに、トップダウン方式の徹底化です。
 本来、民主的な行政のためには、そういう独裁制やトップダウンではなく、住民と現実に接している現場の職員の声を吸い上げながら政策決定に反映させるという、ボトムアップの方式が大変重要です。それと議会民主主義を具体的にどう結合させて行政の民主化を進めるかが課題です。しかし、橋下構想はこれとはまったく逆です。このような構想が出されることによって、逆に、下からのボトムアップ方式による行政の民主化の重要性が浮き彫りになったともいえます。
 トップダウン方式では、首長が住民の福祉を切り捨てる決定をした場合に、それにまったく歯止めがかけられずに一直線に進められるという問題があります。今後は、具体的な政策に即して、こうした意思決定方式の問題点を具体的に解明していく必要があります。

三 自治体労働者のディーセント・ワークの実現
1 「人権としてのディーセント・ワーク」の考え方

 私は、1年ほど前に、『人権としてのディーセント・ワーク-働きがいのある人間らしい仕事』(旬報社)という本を書き、労働者全体について、「ディーセント・ワークという観点から働き方、働く条件を見直す必要がある」と主張しました。当然、自治体労働者も労働者ですから、ディーセント・ワークを享受すべき主体と考えていました。この本で主張したかったことを、かいつまんで話します。
 ディーセント・ワークという言葉は、1999年にILOの事務局長報告で初めて出されたもので、まだ12年ほどの歴史しかありません。「ディーセント」(decent)とは、「まあまあの」、「ほどほどの」、「それなりの」という言葉で、「大変いい」という意味ではありませんが、ILOは、「すべての人々が、まずまずの仕事を得る機会を与えられなければならない」として、これをILOのあらゆる分野の活動をまとめ上げる概念として設定しました。
 厚生労働省は、早くからディーセント・ワークについて、「働きがいのある人間らしい仕事」と訳しています。これは、訳し過ぎという意見もあり得ますが、内容に則して考えれば、これでいいと思います。
 具体的には、「ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)とは、人々が働きながら生活している間に抱く願望である。すなわち、働く機会があり、持続可能な生計に足る収入が得られること、労働三権などの働くうえでの権利が確保され、職場で発言が行いやすく、それが認められること、家庭生活と職業生活が両立でき、安全な職場環境や雇用保険、医療・年金制度などのセーフティーネットが確保され、自己の鍛錬もできること、公正な扱い、男女平等な扱いを受けること、といった願望が集大成されたものである」と説明しています。
 これは、大体はILOの説明に対応しています。ただ、一つ抜けているのは、ILOが強調する「社会的対話」という概念です。「社会的対話」とは、「労働者団体、使用者団体、政府の三者が、雇用・労働の問題について絶えず緊密に対話しなければならない」という概念で、これが抜けています。
 これは、日本政府が絶えずILOから、「社会的対話が欠けている。いろいろな問題について、労働組合の意見を十分に聞いていない」というお叱りを受けていることから、あえて無視したとも考えられますが、そこはよくわかりません。しかし、その部分を除いて考えると、基本的にはILOが言っていることに対応しています。
 ただ、この厚生労働省の説明では、「人々が働きながら生活している間に抱く願望だ」と言っています。問題は、「願望」に過ぎないのかどうかです。願望だとすると、経営者側も否定しないはずです。「そういう願望を持つのはご自由です。そういうことになればいいですね」で終わりです。そこで、私は、「単なる願望ではなく、人権と見るべきである」と考え、本のタイトルを「人権としてのディーセント・ワーク」としました。
 なぜ人権かというのは、憲法論になります。出発点は、「第27条第1項」の「勤労の権利」、いわゆる労働権を国が保障する義務を負うことです。その際、国が保障するのは、どのような雇用・労働でもいいということにはなりません。その雇用・労働は、憲法のその他の条項から来る要請を満たしたものでなければならないはずです。
 それが、個人の尊重と幸福追求権を定めた第13条であり、平等原則を定めた第14条第1項であり、生存権を定めた第25条第1項であり、労働基本権を定めた第28条です。国は、こういったさまざまな人権条項の趣旨を踏まえた労働をすべての国民に保障する義務を負っているわけです。
 こう考えると、ディーセントワークは、まさに憲法が既に保障している人権です。あるいは、人権規定から引き出される一つの必然的な帰結です。そうすると、ディーセントでない仕事はいわば人権侵害です。そういう位置付けになります。
 それでは、仕事がディーセントであると言えるための要素は何でしょうか。厚労省の説明は、大変包括的ですが、私は、三つに分けて整理しています。1番目は、安定した雇用、2番目は、公正かつ適切な労働条件、3番目は、人間らしい働き方です。
 1番目の安定した雇用では、第一に、解雇や、公務員で言えば免職の制限が大変重要です。第二に、最近のホットな話題で言うと、高年齢者雇用安定法改正案が次の国会にも上程されると言われています。簡単に言うと、現在は、年金支給開始年齢の引き上げに伴い、65歳までの安定した雇用を保障しなければなりませんが、労使協定によって基準を定めれば労働者を選別することが認められています。この選別をなくして、希望者は全員、65歳まで雇用するよう使用者に義務づけようとしています。それは大きな前進ですが、その狙いは、65歳まで何らかの雇用を保障したうえで、年金支給開始年齢をさらに引き上げることであり、その布石にすることにあると思われます。そのことを含めて評価する必要があります。
第三に、もう一つのホットな話題は「有期雇用の規制」です。厚労省の試算では、有期雇用の労働者は1,200万人います。そこで、この有期雇用をどのように制限するかは、ディーセントワークの観点から見て大変重要な問題です。逆に経営者の側から見ると、これが規制されることは非常に大きい、深刻な問題だと意識されます。
 本来、有期雇用の規制は、一大政治問題になっていい問題ですが、残念ながらそれほど議論が盛り上がらないまま、法案が提出されようとしています。それによると、「有期契約を更新し、5年を超えて有期契約を続けると、労働者の申し出により、5年を超えた時点から契約期間の定めのない契約と見なす」という制度が柱です。
 有期契約を更新しながら延々と長期間労働者を雇うことは許さないという発想はまちがっているわけではないのですが、期間制限は、韓国では2年、イギリスでは4年です。期間が5年と設定されると、事実上、有期契約の規制の意味は極めて弱くなります。さらに、半年間の空白期間をおけば同じ労働者を改めて有期契約で雇うことも可能ということになっていますので、ほとんど実効的な規制にならないのではないかと思います。
 さらに、こうした規制の方法では、「細切れ雇用」という有期雇用の最大の問題は解消されません。この制度では、たしかに有期契約の更新で10年、15年と人を雇うことは、ある程度防げます。ところが当初から3年や5年に限って有期契約で人を使うという方法が正面から正当化されます。そのような雇い方は、すでに国立大学や一部民間企業で見られますが、新たな法規定(労働契約法の改正が予定されています)によって、このような制度が一層広がることになるのではないかと危惧されます。むしろ、有期雇用で人を使うためには合理的な理由が必要という、フランスやドイツの考え方を導入すべきだと思います。最低限、空白期間の制度はやめるべきです。
 2番目の公正かつ適切な労働条件という点では、最低賃金の大幅な引き上げが必要です。これは、いろいろと議論する必要があります。それに関連して、公契約条例の問題がいくつかの自治体で進みつつあります。また、差別禁止、均等待遇も大変重要な要請ですが、今日は問題の指摘にとどめておきます。
 3番目の人間らしい働き方では、特に長時間労働の問題をどう考えるかです。これは、現実に非常に深刻な問題です。
 厚労省の発表でも、週60時間以上働く労働者は、20代から40代の男性で2割を超えています。週60時間というと、残業は月80時間以上となり、これは厚労省告示の「過労死ライン」です。過労死ラインを超えて働く人が男性の働き盛りの2割を超えているのは、異常な長時間労働です。EU指令では、労働時間は残業を含めて週48時間に限定されています。
 私の見るところ、日本の労働組合は、賃上げは主張しますが、労働時間問題には本当に関心が低いです。長時間労働は、労働者の心身の健康を損なうだけでなく、家族的生活を破壊し、さらに労働者から考える力を奪っているように思われます。こうした異常な長時間労働の問題をどうすれば解決できるのか、労働組合としても真剣に考えるべきです。
 以上は、労働者全体に共通する話ですが、この観点から「職員基本条例」を見ると、非常に大きな問題があることがわかります。

2 ディーセント・ワークの観点からみた職員基本条例

 過度の成果主義については、とりわけ評価の客観性が欠如している場合には、働きがいの欠如につながります。能力評価を免職につなげると、雇用の安定が阻害されます。
 命令至上主義、厳罰主義は、人間尊重の雰囲気を破壊し、働く意欲に大きく影響します。分限免職の濫用も、安定雇用の要請に逆行します。給与水準の切り下げに問題があるのはいうまでもありません。

3 ディーセント・ワークと自治体労働者の特殊な性格

 ディーセント・ワークという問題を考えるときに、まずは自治体労働者を一般の労働者と同じ次元で捉えて議論することが必要です。自治体労働者は、憲法28条にいう「勤労者」だし、労働基準法でいう「労働者」(9条で定義)です。すべて同じように賃金を得て生活する者です。公務員は、民間労働者よりも当然に優遇されるべきものではないし、逆に、真っ先に賃金を引き下げられてよいといったものでもありません。最近の公務員の賃金引き下げ問題や橋下市長の公務員バッシングをみていると、公務員像がはっきりしない、あるいは意図的に歪められているように思います。
ただ、そのうえで、自治体労働者特有の難しい問題を考えておく必要があります。それは、ディーセント・ワークを要求するときに、使用者である当局だけではなく、住民という存在をたえず意識せざるをえないということです。住民の理解なしに公務員のディーセント・ワークは実現できません。そのことを強く意識しながら、自治体労働運動の今後の方向を考える必要があります。

三 自治体労働運動の課題
1 住民の自治体労働者「批判」の意味

 まず、最近、住民が自治体労働者を批判する雰囲気が強まっていると思います。それは、橋下市長などがマスコミを最大限に利用しながら、意識的にあおっているわけですが、住民のなかにそうした潜在的な意識があるからこそ、こうした煽動が効果をもつわけです。なぜそうなっているのかを分析する必要があります。思い付くままに挙げてみます。
 第一は、相次ぐ不祥事が大きく報道され、公務員の規律のなさに対する批判が高まっていることです。飲酒運転や、とりわけ関西の各自治体で問題となった規律の乱れです。また、とくに大阪市で問題となった労働組合と当局の「癒着」という問題があります。
実は、「癒着」とは何なのか正確にとらえたうえで、その意味を考える必要があります。労働条件を労使交渉で決定することまで「癒着」として批判される傾向がありますが、これは甚だしい間違いです。また、大阪市では、人事への組合の「介入」ということが言われて、配置転換や昇格の人事について、当局が労働組合に情報を提供したり、労働組合と協議することまで人事「介入」だとして組合攻撃の材料にされていますが、人事に関する使用者と労働組合の協議は、民間の労使関係でも広く普及しているところです。これまでの労使関係や労働組合の活動に問題があれば、それを見直すべきは当然ですが、現在はとにかく、「癒着」、「介入」、「政治活動」といった言葉だけが一人歩きして、その意味内容が十分に検討されないまま、労働組合が攻撃されているという状態になっています。
 第二は、納税者としての意識です。全体として貧困化が強まると、住民税負担の意識が強まります。私は奈良に住んでいますが、やはり住民税が高いという意識があります。私自身は、奈良県や奈良市の公務員の給料をもっと下げろなどというつもりはありませんが、一般的には、納税者意識が強まると、公務員の給料や待遇への批判が強くなる傾向にあるといえます。
 第三に、私が大変重要だと思うのは、民間労働者と自営業者にある種の「ねたみ」の気持ちが強いことです。「市民」とか「住民」とか言われますが、これらの人たちは、別の面から見ると、民間企業の労働者や零細企業の個人事業主が多いわけです。そういう人たちから見て、公務員がどう見えているのかという問題です。
 例えば、非正規を中心としたワーキングプア層から見ると、公務員は、やはり相当高い賃金を取っている労働者ということになります。他方、非常な長時間労働を強いられている正社員から見ると、公務員は楽な働き方に見えます。もちろん、公務員にもいろいろな差があって、忙しい職場は非常に忙しくなっていますが、住民の目から見ると、「全体として公務員は楽だ」という見方になっています。
 格差社会と言われるように、労働者の間に大きな格差が生じていて、それぞれの仕方でディーセントでない働き方を強いられています。そのような状況のなかで、単純化していえば、正職員の公務員はいわばその中間にあって、双方からねたまれるという構造になっているのではないでしょうか。

2 運動の課題
(1) ディーセント・ワークをめぐる合意・連帯・協同

 そうすると、住民と公務員労働者の関係は、行政サービスの提供主体と受け手の関係というだけではなく、もう一つの位置づけが必要となってきます。つまり、同じ働く者の関係だということです。同じ働く者として、賃金などの労働条件について足を引っ張り合うのか、連帯・協同して引き上げていくのかという問題です。

(2) 公務員の給与・労働条件水準の考え方

 これまでは、公務員の給与などについては、民間準拠の考え方にもとづいて、人事院勧告や人事委員会報告が出され、それによって決定されてきました。そして、公務員の給与やさまざまな労働条件のあり方が民間にも一定の影響を及ぼすという循環が見られました。
 ところが、今後は、公務員の労働基本権問題とも関係しますが、民間準拠がはずされたり、従来のようなかたちでは結び付かなくなります。公務員の給与や労働条件はいかにあるべきかについて、ますます基準がはっきりしなくなる可能性があります。
 そういう状況で、長時間労働をしている民間労働者からは、「もっと働け」と言われ、ワーキングプアからは、「そんなに給料を取るな」と言われます。このような圧力が強まる中で、公務員の労働条件の在り方をどのように決め、それに基づいて民間労働者との連帯を実現するのかが非常に重要な課題となっています。
とても大きな課題ですが、公務非常勤労働者問題への真剣な取り組みがひとつの鍵を握っているのではないでしょうか。公務非常勤は、ワーキングプアの一翼をなしています。正職員あるいはその組合が周りにいるそのような人たちを無視して、正職員の待遇改善だけを要求しても、共感は得られないでしょう。民間の正社員組合も同様の問題をかかえていますが、とりわけ公務員組合の場合には、ますます貧困化しつつある住民の厳しい目にさらされるなかで諸課題に取り組まなければなりません。非正規労働者を含めた労働者全体の賃金や労働条件の底上げを図ることなしに、正職員の待遇改善は難しいと考えるべきだと思います。

(3) 交渉過程の公開について

 それに関連して、最近、大阪で団体交渉の過程の公開という問題が大きな話題になりました。大阪市はもう公開していますが、その他の自治体でも問題になっているようです。
 労働組合のなかには、「現在のように住民が職員の賃金や労働条件の引き上げに冷たい視線を持っているときに、公開すると、そういう声に押されて交渉が不利になるから、公開はしたくない」という意見があります。私は、それも理解できますが、少し消極的な対応に過ぎると思います。次のように考え方を整理すべきだと思います。
団体交渉の過程をそのまま公開することは、交渉ということになじまないと思います。例えば、テレビカメラやマスコミを入れることは論外です。その理由は、自由な交渉過程がゆがめられることです。組合側の自由な発言ができなくなり、団体交渉は交渉とはほど遠いものになってしまいます。
 ただ、交渉が完全に決着がつくまで市民に一切知らせなくていいのかという問題があります。例えば、「○月○日に団体交渉があった。決着はついていないが、大筋の話はこうで、このような点で双方の見解が対立している」という簡単な議事録を、双方が合意して公表することはあってもいいのではないでしょうか。市民との関係では、市民からの批判があることを恐れて陰でこっそり話をするというのではなく、むしろ積極的に、市民に勤務条件の引き上げ等、労働組合の要求の正当性を訴えて説得するという姿勢が求められるのではないでしょうか。

(4) 労働基本権への理解の促進

 それとの関係で、労働基本権をいかに市民に理解してもらうかは、大きな課題です。NHKが5年に一度、「現代日本人の意識構造」という調査をしています。それによると、「団結権が憲法上の基本権である」ことを知っているのはたったの22%です。それ以外の人は、労働組合の結成や運営が基本的人権であることを知らないわけで、ましてや、団体交渉権や労働協約締結権を理解しているはずがありません。ストライキともなれば、犯罪だと思っているのではないでしょうか。こういう状況をどう変えていくのか。
 大阪市における労働組合バッシングの背景には、このような労働組合とその権利に対する市民の無理解があることは明らかです。ひょっとしたら、公務員が労働組合をつくること自体がとんでもないと思っている人が相当いるのかもしれません。このような市民の無理解や誤解を前提として、問題を解決しようとすれば、必然的に袋小路に入ります。当然の常識が当然でなくなっているという冷厳な事実を見すえて、「労働組合とは」、「公務員とは」、さらに冒頭に述べましたように、「民主主義とは」といったことを丁寧に説明するところから取り組みを始めなければならないのかもしれません。
 最近、アメリカのオハイオ州に関する報道が目に付きました。アメリカでは、この前の選挙で共和党が躍進し、各州で公務員攻撃が強まり、公務員の団体交渉権を制限する州の法律が次々にできています。オハイオ州でもそういう法律ができました。具体的な内容は、年金と医療保険における州政府側の負担の削減を、団体交渉の手続きを経ずに行うことを可能としたものです。これによって公務員と民間の給料の格差が解消されるということで、州がこういう決議をしました。
 ところが、このたび、州民投票で公務員労働組合の権利制限の州法を廃止することが決定されました。廃止賛成が61%、反対が39%で、「6対4」です。同様の法律が2011年以降に可決されたウィスコンシン州、インディアナ州、ペンシルベニア州などの他の州にも影響を及ぼすと言われています。
 なぜこういう流れになったかというと、労働組合を支援する市民運動が活発に盛り上がり、労働組合の支援者は、「われわれがオハイオだ(ウィー・アー・オハイオ)」をスローガンにして3千万ドルの募金を集め、大々的なキャンペーンを張ったということです。私は、アメリカのこの運動について、これ以上詳しくコメントする知識がありませんが、現在の大阪市などの状況と比較して、考え込んでしまいます。
「どうして公務員の賃金をこんなに下げるのか。きちんと働いてもらうために、払うべきものはきちんと払え」という声がなぜ住民のなかから起こってこないのか。なぜ、それとは逆に、「公務員の賃金をもっと下げろ。それに反対する労働組合をやっつけろ」という話になるのか。
私は今、一労働法研究者として、自分がこれまでやってきたのは何だったのかという強い無力感にとらわれています。大学の教壇や著書などで、労働基本権の意義やその重要性を一生懸命説いてきたつもりだったのですが、それがほんとうに国民のなかに浸透していない。このことに愕然としています。
公務員の労働組合も、上述のような観点からいって、これまでの活動のどこに問題があったのかを真摯に反省して、今後のあり方を考える必要があると思います。そのことを抜きにして、現在の危機的な状況を脱する道はないと思います。
 以上をもって私の話を終えたいと思います。

以上